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シュキ・レヴィ 誰がダニエル・パールを殺したか ? (上)

BHLが下巻においてパール殺害の「理由」としていることがどれだけ事実に近いのかは私には判断できない。仮にBHLの言うとおりだとしてもそれが驚くべき結論なのか、それとも凡庸で意外感のない結論なのかの感じ方は、それぞれの読者の立場で異なるであろう。この本がinformativeなのは、イギリスで育ち教育を受けた青年がいかにして過激な行動にいたるかの道のりを描いている点である。 誰がダニエル・パールを殺したか ? (上) 関連情報

シュキ・レヴィ 溺れるものと救われるもの

★ガザ爆撃、糾弾!! イスラエル体制派に死を!!! やつらにプリーモの爪の垢でも煎じて呑ませてやりたい。★ガザ侵攻、糾弾!! 女子供の流す血に塗れたガザは、圧殺者ども自身の流す血に餓えて叫んでいる――味方戦車の誤射による戦死者3名だって、オウンゴール1発だけ、これでは少ない! 少なすぎる!! 文字通り、《ガザをイスラエル兵の墓場に!!》 さて、以下の拙文は聊か旧稿ながら―― あと一年たらずで西暦二〇〇〇年、つまり私たちの二〇世紀は終わる。人類がこれからもいわゆる発展を続けてゆくにしても、あるいは突然、そう、かつて地球上に繁栄を極めた恐竜たちのように、突然絶滅してしまうにしても、それはもう私たちの子孫に残された問題と課題に等しい。まだまだし残したこと、出来るわずかばかりのことはあるにしても、私たちとしてはおのれの過ごした二〇世紀が果たしてどんな時代であったのか、検証して、残すべきものは残して後世に託すしかない。では二〇世紀とはどんな時代であったのか? 前半に二度もの世界大戦とロシア革命、後半も朝鮮戦争、ヴェトナム戦争、中東戦争……と、戦後生まれの私たちにとっても、それは疑いもなく戦争の時代であった。歴史はむろん、社会や文化、文学、人生も戦争との関わりなしには語れない。ことに二度目の大戦は人類に深い爪痕を残した。ドイツ人がユダヤ人を始めとする何百万人もの人びとをシステマチックに大量殺戮したことである。髪の毛は鬘に、死体の脂は石鹸に、灰は肥料に利用するほどの凄まじさだった、あるいは人間の尊厳に対して爬虫類的な冷やかさであったというべきか。しかもこの絶滅収容所を頂点とするラーゲル網が、いまも世界的な発展を続ける原発などドイツ式重工業の産業基盤に深く組み込まれていることは重要である(いまのアメリカに見るように、その根底において彼らのラーゲル精神が清算されたと考えるのは早計ではあるまいか。)*。ドイツの版図が拡大するにつれて当時のヨーロッパは収容所大陸と化していた。*ラーゲルからの奇蹟の生還を遂げたイタリア人作家プリモ・レーヴィは、その著書『これが男か』劈頭の詩でこう歌っている。       おまえたち、ぬくい家のなかで       安全に暮らして、       晩に帰れば       熱い食事と親しい顔々が待つ、者たちよ、         考えに考えよ、これが男か         泥のなかで働きぬいて         片時も安らぎを知らず         パン半分のために闘い         シ、またはノと答えたばかりに死んでゆく者が。         考えに考えよ、これが女か、         髪はなく、名前はなく         もう思い出す力を無くして         虚ろな眼に、冷えきった身体の芯の         冬の蛙みたいな者が。       思いを凝らせ、これは実際にあったことなのだ。       おまえたちに命じておく、これらの言葉を、       心の奥に刻みこめ。       家におるときも街中に出かけるときも、       寝るときも起きるときも、       子供たちにくり返し言いきかすのだ。         さもないとおまえたちの家は解体され、         病でおまえたちは動きがとれず、         子らはおまえたちから顔を背けることだろう。 では、そのころ私たち日本人はどうしていたのか? 中国を侵略し、一九三七年には南京大虐殺を引き起こしている。一九四〇年には日独伊三国軍事同盟を結び、太平洋戦争に到る。疑いもなく間違った側について戦っている。捕虜を「丸太」と称して人体実験をくり返した七三一部隊の例ひとつを取ってみても、私たち日本人がドイツ人と比べてより冷血でなかったとはとても言えない。知らなかったから、招集されたから、命令されたから、で済む問題ではない。 では、イタリア人たちはどうしていたのだろう? 一九四三年七月にムッソリーニを逮捕、九月に連合軍と休戦、イタリア軍は崩壊し、ドイツ軍による占領とドイツ傀儡の新ファシスト政府の成立、これに抗して北イタリアの各地でパルチザン戦争が起こる。そう、イタリア人たちは一九二二年のローマ進軍以来ファシズムのもとに一九三五年にはエチオピア侵略、三九年にはアルバニア併合と、ドイツ人や日本人に負けず劣らず間違った側について戦っていたのだが、四三年の軍崩壊後は民衆のレベルで、個人のイニシアチヴのもとに正義と自由のために戦うことになる。〔『イタリア抵抗運動の遺書』冨山房、参照。〕 どうしてこのようなことが可能だったのだろうか? 私たち日本人やドイツ人にしても銃口の向きを変えて、民衆を死に追いやる者、体制を翼賛する者たちと戦うことなど思いも寄らなかったろうし、何よりも抑圧を生む構造をおのれが支えていることにあまりにも無自覚であった(2008年末の私たちの更なる無自覚ぶりは平和そのものの意味を貶めているのかも知れない)。彼らイタリア人だって、人間として生きるぎりぎりのところで敢然と起ち上がったわけだが、こうした経験は私たち日本人の戦争体験からはまったく欠落している。 溺れるものと救われるもの 関連情報




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