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明智城 吟詠歌謡シリーズ第11集 「荒城の月」

スマホを持ち歩くのに不安だったので、貴社からケースを買い上げました大変しっかりとしたもので、夫婦でとても喜んでいます。ありがとうございました。 吟詠歌謡シリーズ第11集 「荒城の月」 関連情報

明智城 戦国人物伝 明智光秀 (コミック版 日本の歴史)

明智十兵衛光秀の唯一の伝記漫画。言わずと知れたこの男は「織田信長の伝記」のラストを飾る重要人物である。出自については「土岐源氏」の傍流とも言われているが戦国の世では血筋の良さなど毛筋ほどの意味も持たない。光秀も若い頃から諸国を浪々の身であったと伝えられる。美濃の斎藤氏に仕えていたとも、越前の朝倉義景に仕えていたとも伝わる。それがどういう縁か後に室町幕府の十五代将軍になる足利義昭に仕えることになる。一説には兄である13代将軍足利義輝を三好3人集に殺され、京都を脱出した義昭が越前の義景を頼ってきたという。だが、朝倉義景に義昭を奉じて京都へ上る意思はなく、光秀は他の大名に協力を求める。それが尾張の織田信長であった。光秀は信長の正室の濃姫とは従兄妹同士に当たったため、その縁に拠るとも。以後、光秀は「足利義昭の家臣であると同時に織田信長の家臣にもなる」という二君にまみえる立場となる。諸国を浪々中に様々な知識や世情に通じる様になった光秀は信長に重宝された。光秀は新兵器であった鉄砲の名手であったのだ。また朝廷の儀礼にも通じており、これが後に信長の近辺に留め置かれる理由にもなった。「天下布武」の名のもとに各地を転戦する信長につき従う光秀。戦功を重ね出世していく。古参である柴田勝家や丹羽長秀などよりもそのスピードは早く、信長が将軍義昭と不仲になるやサッサと義昭に見切りを付けて信長に味方した。以後は信長の家臣として「本能寺の変」に至る階段を駆け上っていくのである。比叡山攻めの功績で遂に近江坂本で城を与えられた。諸国を浪々の乞食同然の身から国主の座にまでなったのだ。信長包囲網は次々と打ち破られ、畿内のほとんどは信長の支配下に治まった。その中で光秀は京都に近い丹波・丹後の両国を与えられたことから如何に信長の信頼が厚かったかが窺える。ライバルの羽柴秀吉・柴田勝家・丹羽長秀・滝川一益等は地方での司令官として各地の敵と戦っていた。だが、光秀は朝廷との関係もあり畿内に留め置かれた。それが挙兵に繋がるとは当の光秀本人でさえ考えていなかったことであろう。本能寺の変のちょうど一年前。西暦1581年6月2日。光秀は自軍のための明智軍法を制定する。その中で光秀は信長が自身を取り立ててくれて、一軍の将にまでしてくれたことに深く感謝し、これからも信長に忠勤を励むように諭している。・・・・これが「光秀の偽装」だったとは考え難い。そうなると1年前までは光秀には反逆の気持ちはなかったということになる。残り1年、晩年の信長との関係が光秀の変心に繋がる。戦国時代の謀反は自身だけでなく、家族・親類・部下の運命さえも巻き込む。成否は個人のみの運命に拠るものではない。信長を討った光秀は「味方集めに奔走する」しかし、親戚筋に当たる細川家は協力を拒絶。支配下当たる武将たちも離反した。そこへ中国地方の毛利氏との戦いにくぎ付けになっていたはずの秀吉が大返しで転戦してきた。「逆賊の光秀を討て!」秀吉軍は次々と味方する兵で膨れ上がり4万人を超えた。対する光秀は1万6千人ばかり。天王山である「山崎の合戦」では大敗し、近江坂本城に逃げ帰る途中で光秀は農民の落ち武者狩りに遭い命を落とした。時に1582年6月13日。本能寺の変から僅か11日しか経っていなかった。享年55歳と伝えられる。光秀は自領では善政を施し領民から慕われていた。また、妻を生涯愛し側室などはひとりも置かなかった。子供たちにも優しい父親であっただろう。それらを捨ててまでなぜ「恩人であった信長を討った」のか?本能寺の変が計画的なものではなく突発的なものであったことは、その後の光秀の対応からも明白である。自身の反逆が最終的に身を滅ぼすことを読めなかったはずがない。信長という時代の革命児に仕えねばならない苦労は並大抵ではなかっただろう。光秀のような常識人の理解を超える存在と捉えても不思議ではない。後に朝鮮に出兵した秀吉が信長の路線を継承したという説があれば、家康は鎖国を推進し方針とした。光秀はどちらかというと方針では「家康に近い」。積極的な拡大路線ではなく、現状維持の保守型。後に徳川家康の側近となった僧侶・天海は明智光秀だったという説がある。天海の書を筆跡鑑定した際に「光秀とほぼ同一人物」という結果が出ているそうだ。光秀は家康に匿われて生き延び、天寿を全うできたのか・・・・全ては歴史の闇の中である。 戦国人物伝 明智光秀 (コミック版 日本の歴史) 関連情報




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